本文全ページトレーシングペーパー特殊ギミック小説本制作:技術編
こんにちは!この記事では本文全ページトレーシングペーパー特殊ギミック小説本の作り方について解説します。
こんな感じの本を作りました。(こちらは試し刷りで、微修正して入稿済みです。完売しました)
https://x.com/matsuri269/status/1981195053470245036
わたしの知る限り、この試みをしている人は他にはいないはずです。思いついてもなかなか実行できない、それが本文トレーシングペーパーなのではないでしょうか。あなたがこのギミックをやりたいと思ったときに、この記事を思い出していただければ幸いです。
今回のギミック
今回の本のギミックについて概要を解説します。さっきの画像を見ればわかるかもしれないのですが……
・片面印刷
・1-2ページ目、2-3ページ目、3-4ページ目……のように、2ページずつ重ねて読む
要するにどういうことかというと、このように読めます。
1-2ページ目、2-3ページ目の見え方サンプルです(1:黒、2:赤、3:青で表示しています。実際に作るときは黒で印刷します)
これが「本」のギミックです。頒布物全体にはまた別のギミックがあるのですが、それは本題ではないので割愛します。
具体的に何をやっているのか
ここからはサンプルを出して説明します。たとえば、『吾輩は猫である』の冒頭部分を適当に分割して、変更していくとこうなります。(番号は説明のためにつけました)
https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/789_14547.html
[1:吾輩は猫である。名前は][2:まだ無い。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも][3:薄暗いじめじめした所で][4:ニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。]
↓
[1:吾輩は猫である。名前は][2:ロココ。かわいい鈴のついた赤い首輪をしているのに、][3:薄暗いじめじめした所で][4:ネズミを追いかける、変わった趣味を持っている。]
↓
[1:今走り回っている少女は][2:ロココ。かわいい鈴のついた赤い首輪をしているのに、][3:黄色いズボンが好きで、][4:ネズミを追いかける、変わった趣味を持っている。]
偶数番変更→奇数番変更の操作を行いました。
ざっと作ったので雑なのは許されたいのだが、こういうことをやっています。この操作を2回やっただけでまったく違う文章になることはおわかりいただけただろう。なんかこれでいいのか……?みたいなテキストになっても、前後の文脈でどうにかできることがあります。それが強みであり、縛りです。
印刷所を決める
最初に、本文トレーシングペーパーが可能な印刷所があるか調べました。表紙だと結構あるんですけど、本文もトレーシングペーパーが使える印刷所はプリンパしか見つかりませんでした。他にもあったら教えてください。
https://www.prinpa.net/
もしかしたら問い合わせれば可能な印刷所もあるかもしれません。大部数だったりする人はトレーシングペーパーを取り扱っているところに聞いてみましょう。
なお、プリンパの冊子印刷は1冊から可能なので、試し刷りもできます。個人的には、原稿チェックがかなり難しいので、試し刷りをすることをおすすめします(わたしも、試し刷りをした結果ミスに気づきました)
1ページ目を書く
とりあえず1ページ目を書きましょう。後のことは考えたほうがいいかもしれませんが、考えすぎてもどうしようもないという側面があります。
1ページで完結しないとギミックが成り立たないので、1ページで完結させましょう。ストーリーを考えたい人は、最後までのぼんやりとした道筋を決めておくといいかもしれません。そううまくいくとは限らないのですが……
なお、Wordで作業する場合は禁則処理を切っておくことをおすすめします。この後の作業で必要になります。
どこを抜くか決める
1ページ目の適当な場所を適当に抜き、テキストを分割しましょう。Wordで作業しているなら色を変えるとわかりやすくなります。
ちなみに今回の本では、AパートとBパートに70字ほどの差があります。あまり差がない方がかっこいいような気もするのですが、それぞれのパートに登場する固有名詞の字数が違うのでこうならざるを得ませんでした。というか、抜けそうなところを抜くときに字数のことを考えている余裕はあまりありませんでした。
2ページ目を書く
先程の手順で色を付けたところを文脈に合わせて変更しましょう。
ここで1ページ目との齟齬が発生してくると思います。
そうなったら適宜調整します。おそらくここが一番大変だと思いますが、がんばってください。
レイアウトを決定する
ここで文字のレイアウトが確定します。これ以降レイアウトを変えるのは非常に厳しい作業となるので、決め打ちにするのが楽です。
ポイントとして、必ず入れなくてはならない固有名詞がある場合、その長さを考慮したほうがいいという点が挙げられます。
スプレッドシートで字数を管理する
ずっとWordで作業していると、字数がわかりにくくて大変ですよね。
今回わたしはGoogleスプレッドシートを使って字数を管理しました。
関数と条件つき書式を用いることで多少楽をすることができます。文字数カウントにはLEN関数を用います。また、今回は条件付き書式を使って、規定字数と一致したらセルに色を付けることにしました。こうすると、若干ゲーム感覚となり、楽しく作業を進めることができます。
この際、注意してほしいのが段落の切れ目です。ただスプレッドシートに流し込んだだけだと、段落の切れ目がわからなくなるため、空行を入れたりするといいでしょう。(わたしは途中までこれに気付いていなかったため、一回大崩れしました)
とは言っても何をどうすれば字数が揃うのか
それでは以下のテキストの「2」を2文字削って23字にしてみましょう。方法は無数にあります。
[1:今走り回っている少女は][2:ロココ。かわいい鈴のついた赤い首輪をしているのに、][3:黄色いズボンが好きで、][4:ネズミを追いかける、変わった趣味を持っている。]
たとえば、以下のような方法が考えられます。
ロココ。かわいい鈴のついた赤い首輪をしているのに、(25字)
↓
ロココ。鈴のついた真っ赤な首輪をしていて、(21字)
↓
エリザベス。鈴のついた真っ赤な首輪をしていて、(23字)
固有名詞が重要じゃなければこれでも大丈夫ですが、ロココのまま進めたい理由がある場合はこうするといいかもしれません。
ロココ。鈴のついた真っ赤な首輪をしていて、(21字)
↓
ロココ、きれいな鈴のついた赤い首輪をしていて、(23字)
このように、一気に削れるとは限らないので、増やしたり減らしたりしながらその字数を目指していくのがよいと思います。形容詞や副詞が削りやすいのではないでしょうか。
具体的な方針としては、このようなものが考えられます。
- 形容詞を削ってみる/別の単語にする
- 逆接表現の字数を変える
- 接続表現が必要なのか考える
- 能動態の文を受動態に変えてみる。またはその逆
- 固有名詞が必要なのか考えてみる
とは言っても何をどうすれば前後と整合性があるテキストが書けるのか
実は、論理的整合性はあまり重要ではありません。読んでて通れば大丈夫です。
あまり突拍子もないことでなければ、案外通ります。
[1:今走り回っている少女は][2:ロココ。かわいい鈴のついた赤い首輪をしているのに、][3:黄色いズボンが好きで、][4:ネズミを追いかける、変わった趣味を持っている。]
『吾輩は猫である』を改造して原型を一切とどめていないこのテキストは、2と3のつながりがあいまいだし、4がいったいどういうことなのか、この時点ではわかりません。しかし、今後なにかが明かされるのではないだろうか?ということが予感されるし、実際に書いていく場合にはそうなるでしょう。
ちなみに、こうやって改造していきやすいテキストの特徴として、このようなことが考えられます。
- 時間や空間があまり特定されていない
- 前後のテキストに、さまざまな因果関係が考えられる
- 一人称よりは三人称のほうが楽
これは一例です。みなさんも自分の手を動かしてどういうテキストがいいのか考えてみましょう。
Wordに流し込む
さて、どうにかしてテキストが完成したとします。ここからはWordでの作業を前提としますが、もしInDesignをお持ちの方で、もっとこうしたほうが楽などあれば教えていただければありがたいです。
2ページ目までは完成していると思うので、それ以降をスプレッドシートからWordにコピーアンドペーストで移します。なんか自動化できないのか考えたんですけど、ただWordにするのではなくて2色にしなければならないので、このページ数ならコピペのほうが早いなと思ってしまいました。ここも自動化するアイデアがあれば教えてください。
禁則処理に対応する
スプレッドシートでの執筆では、何がどの行に来るのかを制御していませんでした。なので、禁則処理を切ったWordでは、行頭に句読点が来てしまっている場合があります。その場合は適宜調整しましょう。この段階まで進んだあなたなら、一字程度の調整は容易なはずです。
組版(のようなこと)
入稿データを作ります。
奇数・偶数ページごとに、入稿データにいらない文字を白にしていきます。
ここまで来ると何が合っているのかわからなくなるので、推敲はこの前にやっておくことをおすすめします。
片面印刷となるので、白紙ページを挿入します。
PDFにして、消えてない文字がないかは確認しましょう。
あとは入稿すれば完成です。一応、印刷所へ、片面印刷であることを申し送りしておくと安心かもしれません。
この形式の応用例はいくつも考えられます。小説ではなくて、短歌や詩でやっても楽しいと思いますし、小説であっても、もっと高度なストーリー展開を行うことができると思います。
今回のわたしの本は、とにかくこの形式を実行することが目的だったというか、「できた」らとりあえず成功ということにしたので、もっとうまくやる方法はあったのではないかと思っています。実際、本の前半と後半だと、後半のほうが「うまい」です。だから前半を書き直そうとも考えましたが、そうすると構成上全体を修正することになるので、今回は断念しました。この原稿をやっている期間、とにかく具合が悪くなっていたので……みなさんは健康に気をつけてください。
今後、同じような形式で小説本を作りたい方の一助になれば幸いです。
ラーメンズ「銀河鉄道の夜のような夜」:反転しているのは何なのか
以前このような記事を書いた。
これでラーメンズ第17回公演『TEXT』の最後を飾る「銀河鉄道の夜のような夜」に関しては考え尽くしたのではないかと思っていたのだが、見返したり、戯曲集を読み返したら新しい疑問点が発生してしまったので、書くこととする。
今回主に扱うのは「反転」のモチーフだ。まず、常磐は「反転」していることに気が付かないのではないかという例を引き、そこから、このコントで「反転」している要素を述べ、常磐の物語としての「銀河鉄道の夜のような夜」はどのように終わっているかについて考えていきたい。
なお、今回は基本的に「銀河鉄道の夜のような夜」単体を扱う。サブテキストとして、タイトルから明示的に元ネタとされている『銀河鉄道の夜』にも多少言及する。以下のテキストは完全にネタバレのため、できたら「銀河鉄道の夜のような夜」を見てから読んでほしい。
左右反転している、だから?
小林(独白)「新聞の活字は、金属製のハンコのようなパーツを組み合わせて出来ています。活字の倉庫には、ひらがな、かたかな、アルファベットや数字はもちろん、辞書に載っている全ての漢字が、そろっています。手書きの原稿を見ながら、一文字一文字をピンセットで拾って、箱に並べる。そこにインクをつけて刷られるわけですから、当然それらのパーツは左右反転しています。だから、似てる字を間違えちゃうことがよくあるんです。政治欄。投票の『票』を、『栗』」
「銀河鉄道の夜のような夜」は、活版印刷所にいる常磐の独白からスタートする。それによると、どうやら、常磐は活字を拾う際に、似ている字を間違えてしまうことがよくあるそうだ。しかし、ここで考えてみてほしい。その前に、「それらのパーツは左右反転しています」と述べているのだ。左右反転しているから、活字を拾う際に間違えやすい、と言っているのだ。にもかかわらず、その後に出てくる例示は『票』と『栗』である。何かがおかしいと思わないだろうか。そう、これらの漢字は左右対称である(ハネの方向など、多少違うところもあるが、これを左右反転しているから間違えるという例に持ってくるには不適切な程度には、左右対称である。また、この後に、『払』と『仏』の例も出てくる。これらの漢字は明らかに左右不対称であり、左右反転しているから間違える、と言うのならばまずこちらを持ってくればよかったのではないだろうか)
ならば、この不適切とも言える例には、何か意味があるのではないだろうか?そう考えて、このエッセイは進む。
この例から、常磐の論理に対するファジーさを読み取ることもできる(実際、この後の会話を見ていると、そのように読めるところもある)が、ここでは、「常磐は左右反転しているものとそうでないものをあまり区別していないのではないか」という説をとってみたい。左右対称/不対称に対する感覚があまりないから、左右反転しているから間違えやすい、の例を、左右対称のものにしたのではないかと。
そして、このコントには、『銀河鉄道の夜』から見ると対称的な要素が、いくつか見られる。
『銀河鉄道の夜』の反転としての「銀河鉄道の夜のような夜」
名前からするに、常磐:ジョバンニ、金村:カンパネルラの対応が見られる。以下、それをベースとして、『銀河鉄道の夜』と「銀河鉄道の夜のような夜」の対比を読み解いていく。
第一に、常磐と「お母さん」の対話である。常磐は、「お母さん」とろくにコミュニケーションをとることができない。なぜなら、「お母さん」は常磐の言うことを繰り返すばかりだし、文脈を無視して言いたいことを言ってくるからだ。最終的に、常磐は「行ってきます」と、「お母さん」の言うことを遮って家を出ることとなる。
「銀河鉄道の夜」でも、ジョバンニと母親の対話シーンが見られるが、特に違和感のある描写ではない。
「お母さん。今日は角砂糖を買ってきたよ。牛乳に入れてあげようと思って。」
「ああ、お前さきにおあがり。あたしはまだほしくないんだから。」
「お母さん。姉さんはいつ帰ったの。」
「ああ三時ころ帰ったよ。みんなそこらをしてくれてね。」
「お母さんの牛乳は来ていないんだろうか。」
「来なかったろうかねえ。」
「ぼく行ってとって来よう。」
ここから、会話が成立する母親⇔会話が成立しない母親の「反転」があるということができるのではないだろうか。
また、常磐が牛乳屋にたどり着いたかはこのコントのテキストから読み取ることができないが(「遠いな、牛乳屋!」というセリフはある)ジョバンニは物語のラストで牛乳屋に到達している。
おそらく、このコントの世界に『銀河鉄道の夜』はない。それはそうだろう。しかし、常磐が「反転」に気付かないのは、それだけではない。
次に、全体の構造として「反転」している箇所について述べる。
「常磐」と「ナレーション」
戯曲集に収録されている脚本の最初には、「小林…常磐」と役名が書かれている。小林がここで演じている役柄が常磐であることに対して異論はない。ただ、役割として、ナレーション的なものを担っているところはないだろうか。
たとえば、牛乳屋のシーンの最初。
小林「ただいま。
その日は、牛乳が届いていませんでした。」
「ただいま」は家にいる誰か(おそらくは、母親)に対するセリフだろう。ならば、次の「その日は、牛乳が届いていませんでした」は誰に対するセリフだろうか?これは、誰に対するものでもない、と考えられる。小説だったら、地の文になるものだろう。このように、小林は、常磐以外にもナレーション的な役割を担っているシーンがいくつか見られる。それは、常磐の「主人公性」を担保するものだろう。
しかし、その主人公性が「反転」するシーンが一箇所だけある。それが、一回目の「銀河鉄道」のシーンだ。
片桐「昔お祭りに来てくれたバンドで、『ダイアナ・ソウルス』って覚えてるか?」
小林「あの人たち何やってんだ」
片桐「もう解散して、今は新人バンドをスカウトして育ててるらしい」
小林「発掘か」
そう、このシークエンスでだけ、金村が主導権をとっているのだ。少なくとも、そのように見えるようになっている。その他のシーンでは、常磐がすべて主導権をとっており、片桐が演じる役は「それ以外」であったにもかかわらず。ここにも反転の構図が見られる。そして常磐は反転に気が付かない。気付きようがない。
因果律の反転
また、常磐が金村と会話している街のシーンの後半には、このような会話が見られる。
片桐「天の川の水!?イコールUFO!?」
小林「イコールじゃないよ。スコールだよ」
片桐「そうか、スコールか。それで俺の上着はびしょびしょなのか。じゃあな」
小林「うん。お祭り楽しんで」
通例、上着が濡れていたら、それに気がつくはずである。少なくとも、上着が濡れている当事者である金村は。しかし、この会話を見ると、「スコールだよ」と言われたところで「上着が濡れている」ことになったように思われる。「反転」の立場からすると、常磐がスコールと言ったことによって、金村はスコールに遭ったことになった、そのような因果律の「反転」を見て取ることができるだろう。
自らが死んでいることに気付かない死者としての常磐
ここまで、さまざまな「反転」について見てきたのだが、一番大きな反転がラストシーンにあるのではないか、と考えている。
「銀河鉄道の夜」のラストシーンにおいて、カンパネルラは川に落ちて落命したのではないかということが示唆される。
「ザネリがね、舟の上から烏うりのあかりを水の流れる方へ押してやろうとしたんだ。そのとき舟がゆれたもんだから水へ落っこったろう。するとカムパネルラがすぐ飛びこんだんだ。そしてザネリを舟の方へ押してよこした。ザネリはカトウにつかまった。けれどもあとカムパネルラが見えないんだ。」
「銀河鉄道の夜のような夜」において、おそらく、一般的に「死んだ」とみなされているのは金村のほうだろう。一回目の銀河鉄道のシーンで「俺、本当はここにはいないわ」と言っているし、二回目のシーンに金村はいない。しかし、反転の構図があるとしたら、どうだろうか。ほんとうに死んでいるのは常磐のほうなのではないだろうか。
まず、最後のシーンは、戯曲集には「銀河鉄道」と書かれている。ここから、シーンの舞台は銀河鉄道であると認識して差し支えないだろう。また、到着時間が三時であると常磐によって述べられているが、これは一般的な列車だとすると遅すぎる(活版印刷所の帰りなのだから、おそらくは夕刻の話であり、その後のAM3時と解釈するのが妥当だろう)ので、ある程度フィクショナルな空間であると認識してもよいのではないだろうか。そして、「銀河鉄道」に乗っているのは常磐の方である。金村ではなくて。金村は「乗る汽車を間違えて」銀河鉄道にいるのだ。常磐は(おそらくは正規のチケットでもって)銀河鉄道にいるのだ。
ならば、死者の汽車たる(銀河鉄道が死者の汽車であるという連想は『銀河鉄道の夜』によるものなのだが)、銀河鉄道に乗っているのが常磐の方であるのならば、『銀河鉄道の夜』から反転して、死んでいるのは常磐なのではないだろうか。「銀河鉄道の夜のような夜」は汽笛が鳴り響いて、暗転して、終わる。この汽車はまだまだ先に進んでいくのだ。
常磐は反転に気が付かない。活字の反転に気が付かないのと、同じように。
「かすりもしない」のは何だったのか
「銀河鉄道」、一回目のラストでは、金村はこう言っている。
片桐「おい、トキワ。なんだよ。透明人間あつかいすんなよ。おい。(頭を叩くが、小林は気付かない)」
金村がいない、二回目の繰り返しでは、こうなっている。
小林「……痛って!……あれ?」
ここでは、小林が何かに叩かれたような痛みを感じている。一回目とは異なって。これは、一回目と二回目が連続しているように見せているが、実はそうではなくて、別世界線であることを示しているのではないだろうか。
小林「(ポケットの馬券を見つける)馬券?……あ、新聞。(新聞を読む)……!!!……かすりもしねえ!」
金村が一回目の最後に常磐のポケットに馬券を入れたのは事実だ。しかし、それが二回目のラストで常磐が見つけた馬券である保証はどこにもない。「あの馬券」が当たったか当たらなかったかは、わからない。これもまた思い込みを利用した「反転」の図式であると言えるのではないだろうか。
そう、一回目と二回目の「銀河鉄道」は、最初から「かすりもしなかった」のだ。そもそも、別の話なのだから。
おわりに:結局人間って孤独なんだろうか
今回は、「銀河鉄道の夜のような夜」冒頭の左右反転のくだり、例示の不適当さになんらかの意味があるのではないかと考えて読解を行った。「反転」が多々見られることと、それに常磐が気付く様子がないこと、それが「銀河鉄道の夜のような夜」を貫くメインギミックなのではないだろうか、という観点で読んでいくと、ある程度の整合性が得られ、最後に死んでいるのは常磐なのではないだろうか(そしてそれに気付かないのではないだろうか)という結論が得られた。
最後に、このコントを見た多くの人が印象に残るシーンとして挙げるであろう、このやりとりを取り上げて、終わる。
片桐「ひとりでやってろ」
小林「ひとりでやってもつまんないよ」
この会話も、まあ浮いているといえば、浮いている(金村が「ひとりでやってろ」と言うのには、微妙に文脈が足りないのではないだろうか。このやりとりの良さを損なうものではないのだが)二回目を見ることによって、常磐がほんとうに「ひとりでやってる」ことになるのだが、ここは一回目の世界だ。もしも、一回目と二回目が限りなく似ているだけで別の世界であるのならば、少なくとも、金村にとっては、ここまでは、コミュニケーションだったのだ。そのあと、「本当はここにはいない」ことに気が付くとしても。その瞬間までは。
結局、ずっと孤独だったのは常磐の方だったのだ。常磐の世界には、コミュニケーション可能な他者がいない。牛乳屋も、母親も、コミュニケーションが取れる他者ではなかった。金村の世界には、途中まで常磐がいた。コミュニケーションが取れていると信じられていた。その後、金村がどのように歩んでいくかは秘されておりーー当然、常磐の行く末も、わからない。
イマジナリー生前葬:小林賢太郎「丸の人」
Potsunen、という小林賢太郎ソロ公演のシリーズがある。これらは、スタジオコンテナ公式Youtubeで公開されているため、それをきっかけにいくつか見るようになった。
今回取り上げる「丸の人」は、2006年に上演された『○ -maru-』の最後を飾る物語だ。(以下のリンクは、開始位置まで飛ぶようになっている)以下のテキストは、「丸の人」のラストシーンに触れているため、見ていない人はぜひ見てから読んでほしい。だいたい14分くらいだ。
ここでは、小林賢太郎が演じる役を「画家」「丸」と呼ぶことにする。
わたしが初めてこのコントを見たときに思ったのは、「死」の気配が色濃い、ということだ。ラストシーン、雪が降りしきる中、画家は「丸」の腕の中に抱かれて目を閉じる。画家が死んだかどうかは、明確には描写されていないのだが、雪が降っていることもあり、かなり強めに「死」を想起させる演出であることは確かである。では、ほんとうに画家は死んだのだろうか?もしかしたら、眠っているだけなのではないだろうか?
わたしは、「あの画家は、画家としてはラストシーンで死んでいるが、人間としては生き残ったのではないか」と考える。
「丸の人」の画家は、丸という概念に執着する人間であった。さまざまな丸を描くのみならず、じゃんけんではグーしか出さないなど、丸という概念そのものを愛しているという描写が前半で見られる。そんな画家は、「白い丸」だけは描いたことがないことに気が付き、雪だるまをモチーフとして白い丸を描こうとする。しかし、雪はなかなか降ってくれない。画家は、「丸を描くことに向いていない」のであった。それを告げるのが、後に「丸」であると名乗る声だ。
「そういうの、世間では、向いてないって言うんですよ」
「……向いててえ」
「おやめなさい、これを言ってあげられるのは、私しかいないんだから……か」
画家は、「丸」との対話の中で、絵を描くことを諦めた(ように読める、明言されてはいないのだが)
「俺さあ、今までで、いちばんでっかい丸を完成させてた」
「どこに?」
「ここーー心にぽっかり穴が空いたよ」
なぜなら、この会話の後、画家は、キャンバスを片付けようとしながらこう言うのだ。
「これでやっと休めるよ、これももういらねえや」
しかし、キャンバスが片付けられることはない。「丸」は、重要な事実を口にする。
「そうそう、大事なこと言い忘れてました。この公園、0時で電気が消えます」
ここで、舞台は暗転する。
「おつかれさまでした」
「ところで、お前誰だ?」
「丸ですよ、丸」
このコントにおける、最後のセリフが、これだ。「天の声」のようにも聞こえたその「声」は、最後に自らが「丸」であることを明かす。そして、明転したら、舞台上には雪が降っているーー画家が望んだ通りに。
キャンバスは裏返され、画家のコートを着て、今まで座っていた黒い球を頭として「丸」が顕現する。画家と「丸」はじゃんけんとあっち向いてホイをするが、2回は画家が負ける。なぜなら、画家はグーしか出さないからだ。3回目はチョキを出すので勝つことができたが、あっち向いてホイでは負ける。最後、画家は「丸」の足元に座り、倒れそうになるが、「丸」の手が画家を抱きかかえるように支え、暗転する。
このシーンについては、解釈が割れるところだと思うのだが、わたしは、最初に暗転してから以降の、言葉のないシークエンスに関しては、画家の心象風景なのではないか、と考える。公園は、0時で電気が消える。もし雪が降っていたとしても、画家はそれを見ることはなかったはずだ。だから、明転して以降のシーンは、画家が「そうあってほしい」と思った光景であると同時に、「丸を心から愛していたことに対する報い」であるように思われるのだ。
画家は、画家であることを諦めた。それは、画家としての「死」を意味する。しかし、それはある程度ポジティブな諦めである。画家は、最後の最後に最もきれいな丸を描くことができたーー自分の心に。そしてそれは、「丸」によって「花丸」として承認された。それによって、画家はようやく諦めることができたのではないだろうか。向いていないことーー丸を描くことを、やめることができたのではないだろうか。
それに加えて、雪が降っている明転後のシーンでは、「丸」が画家に帽子を被らせ、眠らせてくれる。自らの胸に抱いてもくれる。これは、画家が願ったことであるだろうし(丸になら抱かれてもいい、と言っていたのだから)「丸」による「祝福」なのではないかと考えられる。「丸」が何者なのかも、このコントでは明確にされていない。画家の才能そのものなのかもしれないし、画家の自問自答なのかもしれない。はたまた、この世界に存在する「丸」という概念そのものなのかもしれない。ただ、どれであっても確かなことがあり、「丸」はずっと、画家を見守っていた、ということだ。ずっと見守っていてくれた存在が、画家の「死」を見送ってくれた。
さながら、生前葬のように。
「画家」は確かにラストシーンで「死んだ」のだろう。そして、0時になって暗くなった公園に、誰かが立っているのだろう。キャンバスを片付けて、コートをもう一度着てどこかに行くであろう彼の、道行きに関しては、何もわからない。
ラーメンズ「器用で不器用な男と不器用で器用な男の話」のラストで何が起こったのか
ずっとラーメンズとディスコミュニケーションの話をしている。例によってこの記事もそうなのだが、何回目だかわからない見返しをした結果、このコントについて実は何もわかっていなかったな……?と思ったので、書くことにした。キーワードは「発話意図」だ。
「器用で不器用な男と不器用で器用な男の話」はラーメンズ第9回公演『鯨』の最後を飾るコントだ。観測範囲では割と人気が高い。
見ていない人はまずこれを見てほしい。14分ほどある。なお、他の記事で取り上げたコントとは違い、他のコントと連関しているわけではないから、これだけでも見られる。
のコントでは、常にふたりがコミュニケーション上ですれ違っているーーどのように?というのが、わたしの抱いた疑問点である。
まず、このコントのすれ違いの構造をおおまかに4パートに分けて述べる。以下、役名を「片桐」「小林」とする。
①片桐が冗談を言うが、小林はそれを冗談だと認識せず、うまく返すことができない
②片桐の言っていること(絵を辞めること)は冗談ではないのだが、小林はそれを冗談だと認識する
③片桐は「才能がない」から絵を辞めることにしたのだが、小林はお金がないから辞めるのだと思っている
④片桐が手渡した実家の住所は、(小林にとっては)近いものだった
このコントにおける片桐は、「コミュニケーションに器用」な人間だ(自分のコミュニケーションスタイルを他人に押し付ける人間が果たしてそうなのかはさておき、戯曲集の前書きによると、そうだ)対して小林は、文脈を読むことができず、言葉を文字通り受け取ってしまう、「コミュニケーションに不器用」な人間として描かれる。
①パートでは、片桐がコミュニケーションの主導権を握っており、小林はそれに感心しているという構図が描かれる。
片桐「しっかし本当かっこいい建物だよな。こういうのって、何て言うんだっけ?」
小林「デザイナーズマンション」
片桐「そうそうデザイナーズ満州(中略)」
小林「……何でもよく知ってるなあ」
片桐「……ねーよ」
ここでは、片桐の冗談を真に受けて小林が応答するが、片桐にとってはそれは予想された応答ではないという会話が複数回展開される。ここで、小林は冗談がわからない人間である、というのが観客に印象付けられる。(というよりは、小林は片桐の発話意図を誤解し続けている、というのが正しいだろう)
②パートでは、片桐が冗談ではなく、絵の具を捨てたと言った際に、小林が(①パートで言われた)ツッコミをするが、それは機能しないというシーンが描かれる。
片桐「今朝な、絵の具全部捨てちゃった!」
小林「……あ、はっはっは!そんなわけないだろ!」
①パートとは逆に、片桐は冗談を言っていないのだが、小林は冗談だと認識してしまっている。ここでも、ふたりの発話意図はすれ違っているのだ。
③パートの小林のセリフはこのコントの白眉ともいえる。片桐が才能を理由にして絵を辞めて実家に帰ろうとしているのだが、小林は(要約すれば)片桐のパトロンになろうとすることによって絵を辞めてほしくないと伝える。
片桐「分かっちゃったの。俺、才能ないみたい。笑っちゃうよな。十年棒にふっちゃった。……地元で……地味に働くわ」
(中略)
小林「そうだ!僕んちで暮らしなよ!だから行くのやめなよ!全部アトリエにしちゃっていいからさ!だから行くの……やめろよ!絵の具なら僕が全部買ってやるからさあ!」
片桐が絵を辞めるのは、金銭的な理由が第一の理由ではない。もちろん、絵で食っていけないから実家に帰るのであろうが、「才能がない」から絵を辞めるのだ(本人の言を信じるならば)。対して、小林は金銭的な理由が解決すれば片桐は絵を辞めないのではないかと考えている。ここでも、小林は片桐の発話意図を誤解している。というよりももっと手前で、発話をきちんと理解していないともいえる。
では、④ーーオチはどうだろうか。このコントは、片桐が小林に実家の住所をが書かれたメモを手渡し、小林がそのメモを見るところで終わる。
小林「……近い!」
そう、片桐の実家はあまりにも「近かった」。そして、片桐が「実家が近い」ことを認識して小林にそのメモを渡したかどうかは、定かではない(個人的には、ツッコミ待ちで渡したのではないのかと思うが、このコントの内容からそれを正確に判断することはできない)(ツッコミ待ちで渡したとするのならば、ツッコミを聞いてから去るのでは?)
このコントは、小林が片桐の発話意図を理解しているか理解していないかにかかわらず、「ツッコミが機能する」ことによって終わる。また、これは小林が「文脈を読むことができず、言葉を文字通り受け取ってしまう」人間であっても(むしろ、そうだからこそ)発せられた言葉だともいえる。
①~③パートで、小林は常に片桐に対するツッコミに失敗してきたし(それは、小林と片桐双方の性質によるものだ)その理由は小林が片桐の発話意図を誤解していたからだ。しかし、オチでは発話意図とは関係なく、ツッコミが成立する。ある意味では、片桐が望んでいたコミュニケーションスタイルを小林が成功させたともいえる。その場に、片桐はいないので、コミュニケーションが成立した、とはいえないのだが。
おそらくは、小林も「片桐のような、おしゃべりのうまい」人間になりたかっただろうから、双方が望んでいたコミュニケーションスタイルが成立した瞬間に、コミュニケーションが断絶する、というのが、このコントのラストシーンで描かれていることだといえるのではないだろうか。それは、あまりにもさみしいことなのだが。
(まあ、片桐の実家が近いのなら、小林は会いに行けばいいのだし、会いに行ったら片桐はしれっとしているのかもしれない。美しい幕切れの向こうを考えるのは蛇足かもしれないが、「人生ってのは、おもしろくないものなんだよ」)
それでも、音楽は続く:ラーメンズ『TOWER』より「タワーズ」
結果としてラーメンズの最終公演となった第17回公演『TOWER』だが、正直なところわたしはこの公演がものすごく好き、というわけではない。全体としてちょっと散漫だしそれってどうよ?ってところがけっこうあるし何より「おもしろかった」よりも「さみしいね」が勝るような気がしてならないからだ。でも、そのさみしさについて書かなければならないな、とも思い、今回は『TOWER』の最初と最後を飾る「タワーズ1/2」について書くことにする。主に「タワーズ」について書くが、これらのコントは『TOWER』すべての内容を含むため、必然的に他のコントについても言及することになる。
例によって公式Youtubeで全編視聴することができる。だが、DVD版を見ると印象が変わる。その印象の、話をしたい。
なお、本記事では仮の役名として「小林」「片桐」を用いる。
タワーズ1:ディスコミュニケーションと「世界の正解」
『TOWER』のオープニングである「タワーズ1」は、小林と片桐が箱の上にただ立っている場面からスタートする。さまざまな行動の中で、片桐は小林に驚かされることがあるが、小林が片桐に驚かされることはない。片桐は箱の上でしか歩けないと思っているが、小林は箱の下の地面に立っていいことを知っている。一方的に。
その後、謎の声が鳴り響き、その「お題」に沿って「正解」するまで箱を並べたりポージングしたりすることになる。片桐は失敗するが、小林はその答えを知っているかのように成功し続ける。なお、「カマンチョメンガー」も「セバルコス」もこの時点では「知らない」のでパスされる(小林が言葉を発することができることも、片桐は知らなかった)最後に、「だんだんだんだん」という指示が出て、ピアノのように箱を並べて、小林が音楽を演奏し、片桐がそれを眺めている、という構図でタワーズ1は終わる。
ここで描かれているのは、ふたりが文脈を共有していないことと、世界の「正解」を握っているのが小林だという構図である。片桐は、自分が驚かされたのと同じ方法で小林を驚かせようとすることもあるが、常に失敗する。謎の声による指示も、何を指し示しているかわからないことがあり、失敗することになる。それに対して、小林は何が世界のルールなのかを知っており、常に正解する。
タワーズ2:コンテキストと音楽
タワーズ2は、ふたりがあやとりをしている場面からスタートする。「シャンパンタワーとあやとりとロールケーキ」では、ふたりあやとりを言語で伝達するのに非常な困難があることが描かれていたが、このふたりは、なにも問題なくあやとりをすることができる。そして、また謎の声による指示が発生するが、ふたりはこれに問題なく解答することができる。「カマンチョメンガー」も「セバルコス」も、「名は体を表す」を通過したふたりは正解する。「だんだんだんだん」にも。小林はピアノのように音楽を奏でるがーー片桐が触れた瞬間に音楽は停止する。
小林はあらゆる動きで音楽を奏でることができるが、同じことをやっても片桐にはできない。どうしても。音楽が鳴り響く中、エンドロールのように今までのコントのキャラクターたちが登場する。そして、小林の「鍵盤」は空中になり、ふっと息を吹きかけて音楽を「飛ばした」のを片桐は目で追って、それを「空中で捕まえた」瞬間に音楽は止まる。手を開くときらきらと音がこぼれて、片桐は小林を見て、小林は驚いている。暗転。
「タワーズ2」では、まるで『TOWER』の物語をふたりが辿ってきたかのように、ふたりの間にコンテキストが積まれている。もうあやとりはできるしクリムゾンメサイア関連の単語もわかる。ふたりは協力することができる。音楽が鳴り始めるまでは。
ただ、このコントでも、「タワーズ1」と同様に、最後の瞬間以外は世界のルールは小林が握っている。音楽がどうして始まり、どうして止まるのかは小林のみが知っている。片桐がやってもなにもかもうまくいかない。しかし、ラストだけは違う。片桐が音楽を「捕まえた」ことは、最後の表情からするに、小林の予想からは外れていたのだろう。決して驚かなかった小林が、最後の最後に片桐に驚いて終わる。美しい終わりである。
Youtube版は、これで終わりだ。しかし、DVD版には「続き」がある。
ふたつの解釈:音楽は終わるのか
まずは「タワーズ2」のラスト以降に音楽がなかった場合(Youtube版)について考えてみよう。このバージョンでは、片桐が音楽を「捕まえてしまった」ことによって終わってしまったと思われる。その先にあるのは静寂のみで、物語はここで終わる。世界のルールであった小林を、片桐がポジティブに裏切ることによって驚きをもたらす(メタ的な事情を入れると、ラーメンズの本公演はそれ以降行われていない。物語の終わりにはふさわしいと言えるかもしれない)
しかし、DVD版では、カーテンコールがあるためこの先にも音楽が流れている(おそらく、舞台でもそうだったのだろう)そうなると、話が若干変わってくるのではないだろうか。片桐が音楽を捕まえて、それを空中に離しても、音楽は終わることはなかった。むしろ豊かになって鳴り響いた。これは、物語自体は終わっても、「彼ら」の物語は続くことを意味しているのではないだろうか。なんなら、物語を「続ける」ものとして最後の片桐の行動が機能しているともいえる。
わたしは先にYoutube版を見たため、「これ」で終わるのか、という寂寥感がかなりあった。確かにこれは美しい終わりだ。音楽はふわりと空中に消える。驚かなかった人間が驚いて終わる。でも、「それだけ」ならば、あまりにもさみしいのではないか、と思えてならなかった。
その後DVD版を見て、最後まで音楽が続くことを知った(なんなら、幕間にも音楽はずっとある)これは希望なのではないかと思われた。「これで終わり」じゃないのなら、物語が続いていくのなら、もしかしたらその先があったんじゃないかと幻視してしまう(今のところ、ないんだけれどもね)
ラーメンズ『TEXT』とコミュニケーションにおける意味
ここでは、『TEXT』の各コントの要点に簡単に触れながら、最終的に「銀河鉄道の夜のような夜」のラスト「かすりもしねえ!」について考えていきたい。
ゴールデンボールは走ったのか
いきなり「スーパージョッキー」の話だ。「スーパージョッキー」は、片桐演じるジョッキー・馬坂仁が小林演じる競走馬・ゴールデンボールをあの手この手で走らせようとするが失敗し、最終的に馬坂のみが舞台上から走り去り、ゴールデンボールが笑みを浮かべる(そうじゃないこともあるけど……)コントである。台本もそこで終わっている。
ただ、ソフトに収録されている幕間があると話が変わってくる。馬坂が走り去ったあと、一瞬少し明るくなり、ゴールデンボールもその後を追いかけるように走ってゆくのだ。これは……ちょっと話が変わってくるんじゃないのか?
「スーパージョッキー」は、コミュニケーションが拒否され続けるコントである。馬坂が何をしても、基本的にゴールデンボールが反応を示すことはない。(たまに馬坂の方向を向いたりして翻弄するが)ただ、ゴールデンボールがラストに走ったとなると、これは、コミュニケーションは拒否されていたが、コミュニケーションによって伝えたかったことは伝わっており、その結果としての行動がなされた、と言うことが可能になるのではないか?
透明人間が存在しなかろうが
「不透明な会話」は詭弁によって話が見えなくなっていくコントだが、片桐の信念だけ追っていくと、「透明人間はいない」という最初のシーンから、最後のシーンまで、変わってはいない。まあ、その間にいろいろごちゃごちゃとした会話があったわけだが、最初と最後の情報量を比べると、実は何も変わっていない。
では、この会話に意味はなかったのだろうか?
そもそも今作のふたりは、まともに議論をしようとしているわけではない。もしそうなら、きちんと前提を定義してからスタートするはずだ。このコントのタイトルが示すように、ここにあるのは「会話」である。会話でしかない。会話には、目的があるものもあれば、ないものもある。「不透明な会話」では、不透明な展開ではあるが、常に会話が存在する。そしてこれって、案外それだけで、楽しいものなんじゃないかと、思うのだ。とりとめなくあーだこーだと話していること、それこそが目的であり、このコントで示されているものなのだとしたら、ここに「意味」はある。
形式が拘束するコミュニケーション
「条例」はレーモン・クノーの『文体練習』に似ている。
『文体練習』は同じできごとを99種類の違う文体で記述するものなのだが、「条例」では同じできごとを違う「条例」が出た社会で描いている。短歌条例、ハリウッド条例、うやうや条例、ミュージカル条例、そして言葉禁止条例。双方に共通するのが、表現形式が変わると必然的に意味が変わってきてしまうということだ。たとえば、ハリウッド条例の際の「セクシーなお姉様」は他の条例における「エロい姉」に相当することは(観客は)文脈上理解可能だが、ここだけ取り出すと意味合いが結構違うように思われる。「お姉様」は実の姉でなくても言える単語だからだ。(この例適切かわからなかったけどここが一番わかりやすいかなって……)
このコントでは、条例によって設定されたコミュニケーション形式に常に縛られながら、「同じ内容」の話をしている。同じ内容の話に見えるのは、最初に凡例が示されているからだ。(そうでなければ、言葉禁止条例のジェスチャーの意味を正確に理解することはできないだろう)最初に意味を知っている。その意味を異なる拘束下で表現される。異なる拘束であることを、観客は理解している。ここでは、異なるコミュニケーション形式がとられていても、同じ意味を表せることが示されている(あるいは、異なるコミュニケーション形式が取られていると、同じ意味であることを理解するのが困難であることを)
同音異義は交錯するだけで、交わらない
「同音異義の交錯」はまったく違うシチュエーションのふたつの物語が、同音異義語(とジェスチャー)で結びついているように見えるコントだ。結びついて見えるだけで、実際は何の関係もない。それが「銀河鉄道の夜のような夜」への最大のフリのひとつなのだがーー今は一旦そのことは忘れよう。
このコントに、双方向のコミュニケーションは存在しない。前述のように、基本的にはまったく違う世界のふたりのコントだからだ(だから、3本目のラストで同世界だったことが驚きになる)なのに、なんなら、どのコントよりも、この話は「噛み合って見える」。見えるだけなのだが。単語がつながっているだけなのだが。
舞台の「お約束」
「50 on 5」では小林と片桐がそれぞれ別の役を複数の場で演じている。あるときは社員とバイト、あるときは社員とその上司、そしてあるときはーー社長と会社の鬼と書いて社鬼、だったり。「レストランそれぞれ」を思わせるところもあるこのシチュエーションは、バイトと社鬼が同一存在であることを匂わせて終了する。え、別の人じゃなかったの!?
舞台において、同じ人物が別の役を演じることは、ままある。そしてそれは、「お約束」であり、なんとなく観客にインストールされているものだ。もし「銀河鉄道の夜のような夜」で引用されているのが「この構造」そのものだとしたら、どのような結論が導き出せるだろうか。それについてももう少し考えてみたいのだが、それはまた別の話。別の機会にするとしよう。
どちらが死者なのか
「銀河鉄道の夜のような夜」のラストシーンでは、おそらく常磐と金村のどちらかが死んでいる、と見るのが一般的な解釈であろう。そして、金村が死んでいる方が蓋然性が高い。なぜなら、スコールで上着が濡れているし、常磐に金村は見えていない。しかし、ここで考えてほしいのは、常磐と金村は同じ場所にいないだけであって、金村が必ずしも死んでいるとは限らない、ということだ。透明人間はなにもくれないのであった。金村は馬券を渡すことができた。ならーーと反転した読みが現れる。死んでるのは常磐のほうでは?
常磐はあらゆるキャラクター(そう、「銀河鉄道の夜のような夜」は小林演じる常磐と片桐演じるその他すべてのキャラクターの物語である)とコミュニケーションを取ることができない。また、彼が乗っているのは夜中の3時に到着する列車である。そんな列車、普通はない。その点を踏まえると、常磐が死んでいる可能性は十分にある。ただ、この場合はスコールの謎は残る。
どちらを取ってもなんらかの不条理が残るようになっているのだが、どちらが死者なのか?どちらでもいい、というのが、暫定的なわたしの回答である。
「かすりもしねえ!」だからどうした
「銀河鉄道の夜のような夜」のラストシーンにおいて、金村が常磐のポケットに入れた(おそらくはゴールデンボールの)馬券は、「かすりもしねえ」で終わる。常磐は、その馬券を勢いよく放り投げる。おそらく、馬券が顧みられることは二度とないだろう。
このセリフは、馬券が当たらなかったことのみならず、直前のシーンを想起させるようにできている。常磐と金村の存在しなかった会話を。金村がそこにいなかったのだから、存在しなかったコミュニケーションのことを。
これはコミュニケーションの不成立を描いているのだろうか?我々が今まで見てきた物語は、何の意味もなかったのだろうか?
意味がなくとも構わない、というのが今わたしに書ける唯一のことである。「不透明な会話」であのふたりが会話そのものを楽しんでいたように、我々はこの公演を最後まで楽しむことができた。それだけで、十分なのではないだろうか。
そう、常磐と金村のどちらが死んでいるかも、ゴールデンボールが走ったか走らなかったかも、どうでもいいのである。結果ではなくてその過程を、意味ではなくてその形式を、テキストではなくてそれを演じる身体を、我々は十分に楽しんできた。ならば。
誤字のある新聞が存在したところで意味が通じるように、わたしたちはテキストを受け取ることができた、それで、いいんじゃないだろうか。
おわりに:一貫性ではなくて連続性を
『TEXT』は、ここで取り上げた以外にも一貫性を取ろうとすると不条理が発生するところがいくつかある。だが、おそらくはそれで問題がない。それこそ、「不透明な会話」のように、そのときどきを取り出してみると不思議な会話をしているのだが、一本通して見てみると自然な会話になっているような。そんなことが、『TEXT』全体に起こっているのではないかと考えられる。
そもそも、誰が『TEXT』に一貫していなければならない、なんて言ったんだ。別にテキストは一貫している必要なんてない。そのときどきでいうことが変わったっていい、そこにコミュニケーションに見えるものがあるのが大事でーーその瞬間を、楽しめたのならば、楽しい瞬間が連なっているのならば、全体として「楽しかった」と言えるのだろう。
ラーメンズ「銀河鉄道の夜のような夜」と(ディス)コミュニケーション
ディスコミュニケーションは、傍から見ればコメディである。本気でコミュニケーションをしようとしてすれ違っていればいるほど、当人たちがそれに気付いていないほど、笑える。その構造を用いたお笑いはラーメンズ以外にもいくらでもあるし、ラーメンズの『TEXT』以外にもたくさんある。
ここでは、『TEXT』の最後を飾る「銀河鉄道の夜のような夜」を題材にして、ディスコミュニケーションとコミュニケーションの話をしてみたい。
「銀河鉄道の夜のような夜」を取り上げるのは、「誰かとコミュニケーションを行いたいという祈り」と「コミュニケーションなんか不可能なんじゃないかという絶望」の間で揺れ動いている様が、美しいからだ。
『TEXT』は2007年に行われたラーメンズ第16回公演だ。ちなみにわたしは現地では見ていない、というかラーメンズを知ったのがその後だった。なお、公式Youtubeで全編配信されているため、興味があれば見てほしい。「銀河鉄道の夜のような夜」は単体でも楽しめるが、『TEXT』の最後にあってこそ輝く面が、ある。
「銀河鉄道の夜のような夜」は小林賢太郎演じる常磐と、片桐仁演じるその他すべての人物の物語である。金村じゃないのかって?もちろん、片桐にとって金村がメインの役どころなのだが、この物語は総じて「常磐とそれ以外」でストーリーが進む。
そして、常磐は常に、誰とも双方向のコミュニケーションが取れない。最初の活版印刷所のくだりの片桐は、常磐の空想上の存在だ。牛乳屋は電話が通じるが、話が通じない。母親は基本的に常磐の言葉のおうむ返しをするだけだ。唯一、金村だけが、常磐とコミュニケーションが取れているかのような会話をする。最初は。
誤字のない新聞とは白紙の新聞である
常磐は活版印刷所で活字を拾う仕事をしているが、給料はちっとも上がらない。なぜなら、似た文字を間違えてしまうからだ。この物語は、似た文字を間違えてしまった結果起こる誤字と「誤字のある不思議な文章」についてのくだりから始まる。たとえば、投票の『票』と『栗』を間違えてしまうと、「十万栗の差で当選確実となりました」という文章が発生してしまう。
だが、ここで考えてみてほしいのは、誤字があっても、文章の意味は伝わるということだ。選挙の文脈において、「十万栗の差で当選確実となりました」というのは、常識的に(あるいは語用論的にと言ってもいいのかもしれない)おかしい。だから、もしこの文章があったとしても、きっと誤字なんだろうな、と気付くことができる。(だから新聞に誤字があってもいいという話ではないのだが)意味を伝えたい、というのであれば、メディアとしては問題がないといえる。
常磐はおそらく誤字をなくしたいと考えているだろうが(給料が上がらないからだ)それは叶うことのない願望である。後半、列車に乗ったところで、常磐は「誤字のない新聞」を見つける。それは、真っ白な新聞である。小道具に余計な色をつけない、のはラーメンズのスタイルだからかもしれないのだが、まあ、普通に考えて、真っ白な新聞には、誤字がない。何も書いていないからだ。ここで、「間違いのないコミュニケーションが存在するとして、それはコミュニケーションをしないことだ」というのが、言えるのではないだろうか。
もっとも「言葉禁止条例が出たアジアの小国でクーデター」が起こったらしいのだがーー言葉なんかなくてもコミュニケーションは、できる。
牛乳屋は電話には出る
「はい、牛乳屋です」
「牛乳が届いていないんですけど」
「あー、どうもすいませんでした(ガチャ)」
常磐は、牛乳が届いていなかったから、牛乳屋に電話をする。常磐は、牛乳屋に謝罪ではなくて対応を求めている。しかし、牛乳屋は謝るだけで、何らかの具体的な対応をすることはない。クレームに対して謝罪するのは当然の行動ではある。しかし、クレームには通常、何らかのアクションを相手に起こしてほしいという含意が存在する。牛乳屋は、その言外の意味や含意を知ってか知らずか無視している。
言葉は通じている。意味もわかる。ただ、言外の意味が通じない。これもまた語用論的コメディといえるのだが、語用論の話をすると長くなるので簡潔にまとめる。常磐は「どうもすいませんでした」ではなくて「ではいつまでに届けます」であるとか「どうするか決めたら連絡をする」ことを求めている。なんなら、それを直接伝えても「はい」としか牛乳屋は答えてくれない。牛乳屋は、言葉には答えてくれるが、アクションをすることがない。
言葉の中には、アクションを求めるものがある。たとえば、「部屋の中暑いね」というのは、部屋の中の温度が高いことの報告ではなくて、冷房を入れたり窓を開けたりするなどのアクションを相手に求めるものである(ことが多い、多いが最近ではもっと直接的に言ったほうがいいのでは?という風潮もある、あるけどそういう意味で発する人もいる。言語って難しいね)常磐は、言語によるアクションが行われないから、牛乳屋に直接行くことになる。ここでは、「コミュニケーションが取れたとしても、望む結果が得られない」シチュエーションが描かれている。
お母さんの言うことに意味はあるのか
次の場面は、常磐とその母親の会話のシーンである。ここでは、片桐演じる「お母さん」が、常磐の言葉を基本的に繰り返している。エコー付きで。後ろを向いて発される言葉たちは、一見意味があまりないように思われる。しかし、常磐は言う。「……うん。何をにおわせているの?」そう、お母さんの言うことには何か含みがあるように見える。繰り返しているだけということは、新しい情報がないということなのに。
ここでは、「言語そのものが持つ意味以外によるコミュニケーション」が描かれている。たとえば、ジェームズ・ボンドの有名な名乗り、「ボンド、ジェームズ・ボンド」では、同じ意味合いのことを2回繰り返すことによって強調されている。このように、意味としては同じことでも繰り返すことによって、何らかの「意味」が生じてしまうことになる。この場面では、常磐の言葉の一部をお母さんが繰り返すことによって(しかもエコー付きで)、それが何なのかはわからないが、確かに「含み」があるように感じられるのだ。
銀河鉄道の夜のような夜は、銀河鉄道の夜ではない
常磐が乗っている列車に、金村も乗ってくる。同じコンポーネントに座った彼らは、会話をするが、そのうち、金村は自分がここに存在しないことに気がつく。
ただ、それだけの話だ。
一見会話が成立しているように見えるが、実は片方いなくても成立するのは、「同音異義の交錯」の逆だ(ご丁寧に、常磐と金村が別れたあとのSEまで一緒だ)ここに、双方向のコミュニケーションはない。なぜなら金村は存在しないのだから。存在はしないのだが、奇跡のように、馬券を渡すことはできるーーただ、その馬券は「かすりもしねえ!」それはまるで、彼らが(なんなら、常磐と、片桐が演じてきたすべての人たちが)ずっとすれ違っていたことを示すかのようだ。金村が常磐の頭を叩いたが、常磐が頭を叩かれたように感じたのも、偶然なのかもしれない。
コミュニケーションのようなものが見えていたが、コミュニケーションではなかった、というのが、最後のくだりである。そして、このコントはーー『TEXT』全体は、列車が走り続けることを示唆する汽笛の音で幕を下ろす。常磐ひとりを残して。
しかし、それでも、という「祈り」を感じてしまうのも、この物語である。常磐と金村のしりとり(金村が存在しなくても成り立つのだが)の後に、このようなやりとりが挟まれる。
「ひとりでやってろ」
「ひとりでやってもつまんないよ」
もちろん、「ひとりでやってもつまんないよ」は金村の言葉ではなくて、「ひとりでしりとりをやっていたこと」に対するコメントである。なのに、会話が成立しているように見える。再三言っているように、ここに金村は「いない」。でも、舞台上には「いる」。だから「ひとりでやってもつまんない」のは、舞台であり、その舞台上で発生するコミュニケーションであるというのは、穿ちすぎなのだろうか。
まとめ:透明人間はいない、でも
「銀河鉄道の夜のような夜」は、『TEXT』の他のコントとのつながりがある。その中でも重要な概念が「不透明な会話」の中に隠されている。「おい、常磐、何だよ。透明人間扱いするなよ」と金村が言うように、金村は「透明人間」である。そしてその透明人間の存在については、「不透明な会話」の中で以下のように述べられている。
「もし透明人間がいなかったとしても、俺の人生には何の影響もない」
(ついでに、その前の透明人間は「何もくれない」というのが、金村の馬券が外れることへのパスになっている)そう、透明人間はいてもいなくても、人生に影響がないのだ。だっていないから。
確かに金村が常磐に渡した馬券は外れた。意味のないものだ。だけれども、じゃあ、金村が常磐に馬券を渡したことには何の「意味もなかった」のだろうか。だが、「銀河鉄道の夜のような夜」には「意味」だけではないコミュニケーションの可能性/不可能性が描かれている。そこから、もしかしたら。
もしかしたら、常磐がその馬券に、なんらかの「意味」を持たせる日が来るのではないだろうか、そうしたら、彼らの間にコミュニケーションがあったと言えるのではないだろうか、と、言うのは、言い過ぎなのかもしれないが、だけれども、コミュニケーションとディスコミュニケーションの間で揺れ動く物語の結末の向こうを、祈りたい。